伝統の光
   真壁石

歴史

真壁石は、古き時代より現代まで、
石英、長石、雲母、などの放つ神秘の光と、
硬度や耐久性などの優れた石質により、
幅広い用途に使用されてきました。

石器時代〜鎌倉初期

山麗の桜川市内、真壁・大和一帯は遥か石器時代以来の石の産地であり、付近の数多く発見された遺跡(石斧・石刃・石棺等)にその利用を見る事ができます。やがて、道具や素材としてだけではなく、信仰の対象物としても用途が拡大し、仏教伝来に伴って山岳仏教の聖地として開かれた由緒もあります。
鎌倉初期から室町・戦国期にかけての、古碑・五輪塔・仏跡などが数多く残され、この時期(役500年前)がこの地の石材業の初めと伝えられ、仏石加工の存在が認められます。時代の推移とともに石の利用は徐々に盛んとなり、特に江戸期の庶民文化の興隆が専門的石工を生み、城郭や神社、仏閣、暮石、美術工芸品等にその存在を見る事ができます。

明治時代

明治時代に入ると欧米風化を取り入れた建物や橋梁が作られ、墓石や石塔に用いられていた石が建築用材として利用されはじめました。明治22年、火薬による採石事業が開始され、明治32年、迎賓館(級赤坂離宮)造営の際、真壁の花崗岩が使用され、その良質さ(優美・堅牢)が認められたことにより、世に広くその名を知られるようになりました。”常陸こみかげ石”の産地として本格的な開発、企業化が開始され、皇居の縁石、三越本店、多摩御殿(浅川の橋)、公共の建物等に真壁石が使われました。
大正7年、筑波鉄道が開通したことにより、業者数も生産数も急速に増大していきました。

時代を築いていく

昭和時代

昭和に入ると、鉄筋コンクリート建築の普及により石の需要が低下しますが、一方、石燈籠の製作が盛んになり、真壁の燈籠の産業化がはじまりました。
真壁石燈籠の加工技術は秀逸で全国に名高く、なかでも浅野長勲・綱子夫人石像、法身禅師像(大正4年〜石工稲田亀吉とその弟子たち)は伝統の妙技を語るものです。第二次大戦中は停滞しますが、戦後は順調に隆盛の一途をたどりまります。昭和30年代の高度成長期には大型機械の導入、ダイアモンド工具の開発によって生産量が著しく増大しました。

昭和四十年代~

40年代は造園ブームにのって、真壁石燈籠が好調となり、以後、加工技術の発達とともに外国石の輸入もはじまり、燈籠、墓石、建築、モニュメントと需要は拡大し、全国屈指の産地に発展しました。
50年代以降は、建築、公共事業が活況を呈し、国際化時代の一翼を担う未来都市「筑波研究学園都市」にも真壁石がふんだんに使われています。特に筑波センタービルは代表的なものです。長期にわたる日本経済の繁栄は各地のパブリックスペースに様々な石が使われ、それぞれの個性を誇り、あたかも石造建築の黄金時代を迎えた感がありました。

平成
昭和から平成に変わり、上昇基調を維持してきた日本経済は、バブル崩壊にみまわれ、景気後退を余儀なくされました。当石材業界も労働コストの内外格差に対抗するために、特異な発想と技術力を追求し、新たな発展への努力を続けるなか、平成7年、真壁石燈籠が国の伝統工芸品に指定されるという名誉に浴することができました。

これからの真壁石
真壁石の産地は、ますます高度化するテクノロジー世界に対して、独自の伝統技術と最先端技術の調和、融合を図りながら、外国製品の輸入攻勢に対処し、未来における発展の道を模索、追求してましります。